洋種果樹が入ったのは明治に入ってからで、明治元年プロシヤ人ガルトネルが現在の七飯町に土地を租借して農場を開き、ここに母国から果樹苗木をとり寄せて植付けたのが最初で、りんご、なし、ぶどう、おうとう、すもも、小果類が導入されました。
ガルトネルの租借地は明治三年に返還され、一時移民が耕作していましたが、明治六年に七重官園として新発足しました。
その際、ガルトネルが植付けた洋種果樹としてりんご68本、なし282本、すもも71本、おうとう6本、ぶどう6本、カーランツ19株、グースベリ2株がありました。
ガルトネルが導入した果樹類は定着しませんでした。それらは全て母国のドイツから輸入したためで、ヨーロッパの夏に乾燥した気候の下で育成された品種は、北海道の半ば夏湿の風土に適合しなかったからと思われます。
本道の果樹栽培の実質的な発達は開拓使が顧問ケプロンの献策に基き、主としてアメリカから各種の果樹を導入して、普及奨励に努めたのにはじまるということができます。
明治2年設置された北海道開拓使は、黒田次官によっていわゆる開拓使10年計画がたてられました。
北海道の拓殖事業を効率的に進めるには、海外の先進地から有能の土を招聘して、その進んだ知識技術を取入れることが重要であるとし、明治4年1月、 黒田次官は自ら渡米し グランド大統領に面接し、その推挙によって時の農務長官ケプロンを開拓使顧問に迎えることに成功しました。 ケプロンは同年8月、40余名の部下を引つれて赴任、黒田次官の10年計画の立案実施に参画、北海道開拓の各分野に大きな足跡を残して明治8年に帰国しました。
ケプロンは来朝するや直ちにアメリカから引つれてきた2名の技師を道内各地に派遣して現地調査に当らせ、その報告にもとずいて翌5年1月、開拓施行についての意見書を提出しました。その中で果樹についてはわが国の気候風土が果樹栽培に好適しており、北海道のみならず広く全国に栽培するようにすすめています。